「初祈祷柴灯護摩供」は令和4年に行事廃止しましたが、引き続き、県内外並びにその他の檀家様からのご祈願を実施しております。正・副住職で本堂にて14時よりご祈願をさせて頂きます。
毎年3月と9月の彼岸の入りの日は、檀徒先祖供養の土砂加持法要があり島結衆近隣寺院方の出仕で中曲理趣三昧法要がある。
昔からたくさんの新仏の戒名を大きなお軸に記して、毎年お釈迦様の誕生会花祭に本尊として祀り、真言宗法要の最高の供養法の土砂加持法要が修行されます。近隣寺院の20カ寺以上で出仕されます。お説教の席もあり、有名な布教師の先生をお招き致します。他に慰霊祭・施餓鬼供養・永代合祀墓供養も修行されます。
新暦の4月~5月の間で、旧暦の3月20~21日がお接待日。岡山南部西部、福山府中、向島から熱心な大師講のグループの方がお参りくださる。島内の幼子を連れたお母さん方、休みに当たれば子供達の自転車グループなど皆お菓子のお接待を楽しそうに回っている。ただお線香を立てる用意の参拝者減や世話役の高齢化増が気になるところである。
昭和47年(1972)に建立した身代り大師さんの青葉祭りとして毎年6月15日として始まり、後にボケ封じ観音さん・トゲ抜き地蔵さんが合同祭となり、途中止まっていた本尊祭の阿弥陀さまの縁日が15日なので4つの仏さまの祭として再出発した祭である。(最後の行事、令和6年。)
毎年6月27日には当山流修験行者より伝の鳴り釜祈祷を修行。竃の本尊の荒神がお堂の熱湯たぎった釜の中に降臨し、大きなオ~~ンという不思議な仏音が発声。京都のお舎利信仰者の方から奉納された舎利(お釈迦様のご遺骨)加持で参拝者は身を清められ、羅福根の接待を受ける。
住職の友人の桂春団治弟子、桂梅団治が毎年浄土寺客殿にて寄席を公演前座に手品や腹話術や漫画家似顔絵書き、切り紙等の演芸も楽しみの一つ。
7月23日は地蔵盆。浄土寺では昭和50年(1975)前後に日本中で水子供養ブームが起きた。ブームとは少し不謹慎だが子供への愛情の増大や女性の意見・価値観の表れの象徴のような気が致します。昭和20年(1945)頃、子供を亡くされた年老いた女性からの話、高熱の赤ちゃんをおぶって夜半に向島まで医院を探しに行ったが赤子は力つきた。その時の背中の赤ちゃんの重さが今だに忘れられなかったと・・・
(最後の行事、令和5年。)
8月は1日からお手伝いの小僧さんを頼み、「盆参り」を始める。1日は昔から地獄の釜の蓋が開くと言われ、10日は「千日参り」で、この日お寺とお墓に参ると千日参った功徳があると言われる。
(朝6時より施餓鬼札授与所開設)
8月の13日・14日は新仏の新盆参り、18日は送り盆。灯籠流し施餓鬼供養が田熊の港で、送り盆の盆踊りの歌演奏の音色と共に各家の灯籠が明かりを灯されて、夜の海を流れて行く。先祖たちがあの世お浄土に向かって旅立って行かれる盆の最後の儀式です。
12月の暦で最初の巳と午の日が巳午供養参りの日である。新盆と同様に新仏の供養。新仏の正月供養といわれている。
供養の起こりはその昔、瀬戸内海で村上水軍が海上実権を握っていた頃、ある戦いに村上水軍一団が出陣した。その時大きな嵐や戦いによって一団全滅になり、僅かの生き残りが命絶え絶え生還し故郷の島民に伝えた。残された水軍達や家族は悲しみ、寒い冬の海に消えた兵士を哀れんだ。そしてもうすぐくる正月も迎えられない兵士の御霊を嘆いた。それ以来水軍関係の島々では墓石にしめ縄を巻き、墓の前で杵や臼で餅つきをしたり、仏前にお重ね餅を供えて供養する「巳午供養」が始まった。まさしく家族の愛情の印の奇祭と言えよう。今でも今治市沖の大島から尾道市沖の因島の間の島々で村上姓だけでなく、全ての新仏の正月供養となっている。
除夜の鐘も終わり浄土寺の本堂(阿弥陀堂)では住職が一人薄暗い内陣で灯明を灯し香を焚き、本尊阿弥陀如来のご宝前で新年の開運を祈り、檀信徒の家内安全、各家先祖の冥福を祈り読経する。