八朔を発見
第15世住職 小江恵徳上人

江戸時代末頃の万延元年(1860年)、浄土寺の寺領に、とても美味しい柑橘が実っていることを恵徳上人が発見しました。そして「八朔」と名付けて、次々と接ぎ木を増やしていきます。

恵徳上人が詠んだ歌が残っています。
「この里に生まれ育ちし八朔ぞ
  味と香りで永久に幸あれ」

八朔を全国へ普及
田中清兵衛氏

昭和時代、現在の県立西条農業高等学校の第1期生として入学。卒業後は故郷である田熊に帰郷し、学校で学んだ技術を農業で実践。母校の生徒たちを田熊に呼び農業実習として畑で共に汗を流したり、出荷組合を立ち上げるだけではなく、八朔を全国へ普及させるために尽力しました。その功績を称えて、浄土寺境内に銅像が建立されました。

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因島の田熊に柑橘が自然実生していた理由は、柑橘に適した環境があったからでした。

密厳浄土寺のある田熊には、昔からとても多くの柑橘が自然実生していました。それは、田熊が南に面して青影山の斜面地を照らし日当たりが良いため、柑橘の成長に適していたのです。そして明治期になってその種類が明らかとなり、60種を超える名もなき雑柑が自生していたと記録が残されています。

村上海賊と八朔の関係

戦国時代の因島では、村上海賊が制海権を握っており、密厳浄土寺の背後にある青影山の「青陰城」を居城の一つとしていました。因島村上は、東南アジアへも遠征に行っていたため、そこからたくさんの柑橘を持ち帰り、青影山の麓に植えていたことが分かり始めました。柑橘を持ち帰った理由の一つとして、柑橘は船乗りにとって、水と食料同様に大切なものでした。大航海時代、船乗りの命を守ったものは、“ビタミン”でした。それが不足すると、壊血病にかかり命を落とす・・・。そのことを村上海賊たちは既に知っていたため、行く先々で柑橘を因島へ持ち帰り、その種を植えたのだと考えられています。(写真は、浄土寺境内墓地にある村上直吉夫妻の墓)

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八朔の優秀性を認めた世界的に有名な2人の博士

田中清兵衛氏が幼い頃、柑橘の病が海外で流行ります。「かいよう病」とは、柑橘にとってとても怖い病気でした。そのかいよう病が日本由来ではないかと言われ、世界的に有名な農学者であるウォルター・T・スウィングル博士と、日本国内屈指の柑橘分類学者である田中長三郎博士が、柑橘の調査で因島に来島します。2人の博士が因島の柑橘をつぶさに調べたところ、かいよう病は因島にはなく、日本由来ではないことが証明されたのです。国内外で有名な博士に注目される程、因島の田熊には、柑橘がたくさん自生していたのですね。

八朔についてより詳細な調査・取材撮影を、「八朔ゆかりの会」にて写真家・村上宏治が続けています。

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どなたもお参り頂けます。どうぞお気軽にお越しください。

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