往年の田熊住民菩提所として、足狩山(青影山の麓)に善福寺という小庵があった。室町後期、村の中程になる郷条に移転される。郷条の地形は、島の南面で日光に恵まれ農作物に適し、生活よい仙境であり、因って恵日山浄土寺と称号した。これを以って当山の開創(弘治年中(1555年~1558年))とする。
この当時の田熊村上は因島村上水軍の一族分家で島の南部に覇を唱え威勢隆々たりしも、天正13年(1585)伊予河野氏滅亡により、三島(能島・来島・因島)村上水軍は解体され。田熊村上は田熊の地に帰農する。その頃の一族の菩提所は長源寺であったが、同寺は既に廃寺され、浄土寺に菩提所を求めたのであろう。(写真は、浄土寺裏手から因島村上の居城の一つだった青影山にある「青陰城跡」を望む。)
万延元年(1860)には当時の住職恵徳上人が偶然実生の果実を発見、陰暦8月1日頃より食されたるに依り八朔と名付けられる。又安政柑も安政年間浄土寺近くで実生したものである。浄土寺発祥の八朔は今や全國的に栽培され、柑橘本山の感を一段と深める。
大本屋としての村上四郎衛門尉直吉が、島の豪族岡野利右衛門藤原宗徳に相い図り、浄土寺の根本的大改修を発願、御室中本寺としての尾道西國寺より宥為法印を住職に迎え、そのために真言宗に改宗し、寺門の拡大、伽藍を新築整備して浄土寺の確固たる基礎を樹立した。寺名が浄土寺なる故に、本尊として阿弥陀如来を勧請し、持仏堂には聖観音菩薩、真言宗なる故に、不動明王と高祖大師、加えて地蔵菩薩を祭祀せり。宥為法印はこのため当山中興一世と称されている。 後年第十世自空法印の代、大火災(江戸中期、寛延3年(1750)3月18日)を蒙り伽藍堂宇と古文書一切を烏有に帰した。この時自空法印は、火中般若心経を誦して堂宇の中心点を動かず、又法資締然は消火に挺身するも及ばず火中の人となるという秘話を残した。
現在の威容聳える総桧の客殿は、昭和8年(1933)第16世不染上人、第17世信雄和尚の代に新築されたものである。第18世になり、宗教活動の一環として、農繁期に託児所を臨時開設、町民の好評と幼児教育の重要性から総代会に計り全堂開放して、ひかり保育園を開設、幼児教育の実動に入り、現今の尾道市立田熊保育所へと足跡を残したのである。各堂の廊下や柱の傷跡は毎日の保育事業の歴史を刻んでいる。
又東面なりし本堂は元不動堂跡へ南面して移築、元東面本堂跡には石佛修業大師を建立、毎年初祈禱として柴灯護摩が厳修される。その他庫裡、蔵、二階集会所等全棟の改築に及ぶ。昭和50年(1975)以降、新庫裡寺庭の再築造、客殿内面の荘厳や鎮守荒神堂改修を始めとし、山門の内外全山輪奐の美遂次完成慶ばしている。寺は大衆の心の拠り處なり。
第15世住職 小江恵徳 上人
第16世住職 不染 和尚
第17世住職 信雄 院家
伝燈大阿闍梨 信雄大僧正
総本山醍醐寺第100世座主(追贈)
大本山西國寺第44世院家
別格本山無量壽院門跡
準別格本山密厳浄土寺第17世院家
第18世住職 文雄 院家
総本山醍醐寺第102世座主
真言宗醍醐派第10代管長
大本山三宝院第51世門跡
大本山西國寺第45世院家
準別格本山浄土寺第18世院家
麻生文雄大僧正倪下
第15世の恵徳上人の珍しい写真。背景やアルバムの尾道写真館の名前から西國寺持仏堂横の書院で、裏庭を背景に入れた撮影か。
近隣寺院の法要の記念写真。浄土寺関係者の若き日のご尊顔が。前列左から3人目西国寺麻生信雄院家。前列の左側1人目宮島大聖院吉田裕信貫主(現住職夫人の実父)。中列右から2人目因島浄土寺麻生文雄住職。
浄土寺身代り大師石像の開眼をする信雄院家。
50組以上仲人媒酌人をされた若き日の文雄門跡と千代香夫人。
醍醐派宗会議長当選時の浄土寺文雄住職。
真言宗最高峰法要 京都東寺御修法 真言第一長者就任
平成10年1月8日~14日